ずっとここに戻りたいなと思いながら、1ヶ月以上が経ちました。
ここに思いを綴ることは、自分の気持ちへ静かに降りることだから、それができなかった日々だけれど、それでも心地よく過ごせていました。
今も、何も話さなくても、わたしは満たされているなと感じます。
この充足感はどこからくるのでしょうか。
夏至の日、ある方に今わたしが抱えている迷いと不安を話しました。
直近9年間の制作活動、主に現在地に対する迷いと不足感を、あまりお話したことのない方に話す機会がありました。このような内的な話を、なぜかそのときは、自分の外へ出しました。
もう一度絵に向き合ってみようと、私なりに制作活動を頑張ってきたけれど、そこからえられたものは、私を満足させるものではありませんでした。
怠けているつもりはないけれど、自分の頑張りが足りないから、いつまでも迷妄の渦中にいるのだと思っていました。まだまだ頑張りが足りないのだと自分を追い込む反面、いつになったらこの霧は晴れるのだろうか、どうすれば納得できるのだろうか、さっぱり見通しが立たず、死ぬまでこんなふうに苦しみ続けるのだろうか、そんな人生はいやだなぁ、ではどうすればいいのだろうか、分からなくて、描き続けることでしか自分を受け入れることができなくて、ふたたび内へこもる日々でした。
その方は、頑張りが足りないのではなくて、もうやれることは充分やっていて、ただその見返りや現在地が想像していた理想とは違っているから、足りないと思い込んでいるだけではないか、と話してくれました。
そして、夏至という日は、前半の半年に感謝して、これからの半年をより軽やかにむかえるために、不要なものを手放す日だと教えてくれました。
心に沈むふようなもの、しがみついているもの。
そんないくつかの大きなモヤを、あるセッションを通して手放しました。
効果は分からなかったけれど、大事な時間だという感覚はありました。
その後、そのときの気持ちはどんどん薄れて、その時間のことも普段は忘れているのだけど、
なぜか、出会う人たちが、わたしを受け入れてくれます。周りの人たちが、ありえないほどにやさしさを与えてくれるのです。
私は何も変わっていないはずなのに、場所や環境、出会う人たちが変わるだけでこんなにも違うのだなと感じました。
今振り返ると、私は停滞していたのだと思います。自ら望んでアトリエにこもり、制作に打ち込む年月を選んできたけれど、新しい景色が不足していました。元来わたしは、1箇所にとどまるのが苦手なさすらい気質です。ですが、絵に向き合いたくて、とにかく絵を描きたくて、それ以外のさまざまな楽しみを捨ててきました。
そうしないと絵描きにはなれなかった。本当に大切な9年間です。それをさせてくれた周りの人たちには感謝しかありません。
総括するには早急で、またいつ谷がやってくるのか分からないけれど、特にこの一年は、自分を大事にすることを学ばせてもらいました。
・一筆に感動したら、それは感動である
・いつでも心にあたらしい風を送る
・自分を粗末にする人とはさようなら
・足元の美しさと遠くに触れる自由
ずいぶん長い間、希死念慮とつかずはなれずでやってきました。
新しい朝ほど、きみをうらめしく思ったことはないけれど、ときに最後の砦のように、よりどころにもなってくれた。
歳を重ねれば重ねるほど、一人では生きていけないあたりまえに気付くことができる。そして、自分になってゆく。
今の気持ちを書き留めたくて、とりとめのない文章となりました。